ワンキャリア人気ライター4名がそれぞれの仕事観を語る「仕事は楽しいかね?」特集。最終日は、有名ブログ「もはや日記とかそういう次元ではない」でおなじみ、熊谷 真士氏の記事をお届けします。
<ライター紹介:熊谷>
京都大学→総合商社→ヘッジファンド/ライター
ブログ『もはや日記とかそういう次元ではない』
前回、「仕事はダルいです」という記事を書いてみました。これは要約すると「仕事はダルいです」という内容になっています。我ながら、一体自分はドヤ顔で何を書いているのかとヒキましたが、小学生の作文並に低クオリティな仕上がりを是非ご堪能下さい!
で、こんなこと書いておいてアレなんですが、僕はハッキリ言って疑問なんです。
仕事って、本当にダルいんでしょうか?
「仕事 = ダルい」なんて、安易に決めつけちゃって良いんでしょうか?
どうも納得出来ないので、今から猛烈に反論させて下さい!!自分に対して。
楽しむ男
僕が企業で働いていた時に、チームに凄く尊敬している先輩がいました。僕と同じチームで、同じように化学製品のトレーディング業務を担当していた中堅のお兄さんです。
僕から見て、彼の仕事に対するスタンスはかなり特殊でした。彼は仕事を、“遊ぶかのように”こなしていたのです。
「よし、来月末の積みで韓国から6000t買ってそれをインドに売ろう♪ ちょうど韓国メーカー余ってるらしいからね〜♪ どこの船会社が安いかな〜♪ あ、インドに着く前に、途中でタイに寄ってタイにも3000t売ろう♪ じゃあ韓国からの買いは9000tだな〜♪ 数量増えたから、単価下げてもらおう♪ う〜ん、韓国のメーカーいくらまで下げてくれるかなあ♪ あ、熊谷、昨日アジア積みでなんかディールあったか知ってる?♪ あ〜韓国人と交渉しなきゃな〜♪ んっっふっふう〜んんん♪」
この、「んっっふっふう〜んんん♪」というのは決して彼のインナーサイドから迸るパトスを形容した比喩表現の類いではなく、彼は本当に物理的な音として「ん・っ・っ・ふ・っ・ふ・う〜ん・ん・ん」と発していました。
僕は、彼と一緒に出張に行くことや同じメーカーを相手に会食をする機会が多く、プライベートでも相当仲良くして貰っていたのでかなりの時間を共にしましたが、彼の仕事に対するスタンスは本当に凄いなと思いました。
無理やり自己洗脳をしているわけでもなく、他者からの評価の為に敢えて公言しているわけでもなく、本当に「仕事それ自体」を楽しんでいて、それ故、彼は月曜日の朝からハイテンション。月曜だよ月曜マンモス嬉ピイYO!!
僕は彼と仕事をするのが、大好きでした。
楽しむ人・楽しまない人
就活生が触れにくい情報だと思い前回の記事で書いてみましたが、仕事を楽しまない人や仕事の時間を絶対的に“良い”時間と捉えない人は会社にはたくさんいます。
実際、ふとオフィスで周りを見渡せば仕事を「ダルい」と切り捨てる人や「こなすもの」だと割り切る人の他、「月から金は耐えるのみ」とディフェンスする者に「サラリーマンとは辛いものよ」と悟る手練まで、会社というのは仕事の時間に折り合いをつけるべく磨いた技術の壮大な発表会のようにも見えます。
ただ、そんな中にも、仕事を純粋に楽しみ、仕事の時間を仕事以外の時間よりも“良い”と思っている人もいる。そして周りにもその“楽しさ”を伝染させるような人がいる。みんな、似たような仕事をしているのに…!
とある、小結論
そう、ここから、こんな小結論を導くことが出来るかもしれません。結局、「楽しい仕事」なんてものはそもそもどこにも無くて、全ては「本人が楽しむかどうか次第なのだ!!」という結論です。
仕事に楽しさを見出す能力が高い人は、どんな仕事だって楽しみ方を見つけて楽しんでいる。仕事がダルいなんて言ってるのは、自分自身がそれに夢中になろうとしない、楽しもうとしないからであって、そんな姿勢でいたらどんな仕事だって楽しめやしないだろう。
あなたの仕事の楽しさを規定するのはあなたの外に存在する、外的な要因ではない。それは心の持ちよう、考え方、意識、あくまで内的な要因なのだ。
いいかい、楽しもうと思えば何でも楽しめる。議事録だって楽しめる。カバン持ちだって楽しめる。ゴミ拾いだって楽しめる。虫拾いだって楽しめる。梨拾いだって楽しめる。牛拾いだって楽しめる。どんな単純作業だって、楽しくなるように自分で工夫するんだ!
「仕事=ダルい」なんて安直な結論を出すような鼻毛野郎には「死」あるのみなのだ!ポア!!!!
(以上、「仕事はダルい」と決めつける人間に捧げる、有効な判例を用いた反論、終わり。)
「仕事のダルさ」を規定する要素
さて、「仕事はダルい」という意見を書いてから、「仕事はダルくない」という意見を書きました。二重人格と思われそうで怖いです。
というか、とある人が何かしらの仕事をしていたとして、「その人が仕事をダルいと思うかどうか」というのは、逆に「やりがいがあると感じるかどうか」というのは、その人の持つ“どのような要素”によって決まるんでしょうか…?
“ダルさ”を規定する具体的な構成要素には、例えばどんなものがあるんでしょうか…?
ザッとですが、その人における、以下のようなポイントが関係するんじゃないかな〜と思います。ちょっと書き出しただけで、物凄い数になりました。さあ、一気に読み飛ばして下さい!!
「仕事における裁量をどの程度求めるか」「何を以て裁量と考えているか」「自分が成長することに対してどの程度のやりがいを感じるか」「自分の何がどのように変化することを成長と定義しているのか」「会社の成長がその人のやりがいに寄与するのか」「取り扱っている商品への個人的な思入れがやりがいに影響するか」「自分を洗脳する力がどの程度あるか」「具体的に学びたいスキルがあるか」「そもそも望んだ仕事についているか」「望んだ配属についているか」「挑戦することに対してやりがいを感じるか」「何を以て挑戦と考えているか」「経済的インパクトの大きい仕事をしたいと考えているか」「どのような人を尊敬するか」「オフィスの物理的な環境に満足しているか」「対価として得られる金銭がどの程度やりがいに影響するか」「そもそもお金はどの程度必要だと思っているのか」「社会的な意義の高い活動からやりがいを得るか」「社会的な意義をどのように定義しているか」「仕事にまつわる物理的な移動が心身に負担を与えるか」「実質的な労働時間に対して不満を感じるか」「ONとOFFを完全に切り分けたいと思っているのか」「家族はその人の社会的な地位がどうなることを望んでいるのか、また家族のそのような期待にどの程度応えたいと思っているか」「自分の近しい人達にどのように思われたいと思っているのか」「近しい人達はどのような属性の人が多いか」「チームのメンバーとのコミュニケーションから得る喜びがどの程度あるのか」「自由をどの程度望むか」「何を以て自由と定義しているのか」「国際性からどの程度やりがいを感じるか」「国際性をどのように定義しているか」「自分の能力にどの程度の自信があるのか」「自分の可能性をどれくらい信じているか」「自分の能力をどのように分析しているか」「能力と可能性の相関をどのように捕えているか」「帰属からくる喜びをどの程度感じるか」「どのような状況を以て帰属を感じるか」「将来をどの程度具体的に描いているか」「現在が将来へのステップになっている必要があると考えているか」「比較優位から得る喜びはどの程度あるか」「どのような人達を比較対象と捉えているか」「安定からどの程度の喜びを得るか」「安定をどのように定義しているか」「同期とどのような関係を望むか」「上下関係の厳しさをどのように捉えているか」「配偶者はいるのか」「配偶者の考えはどうで、それにどの程度応えたいと思っているのか」「リスクをとることをどのように認識しているか」「どのようなリスクを望みどのようなリスクを嫌うか」「おしあじえわ:おえこ」「えわおっpl、:」「あわ」かあ、l;、え;あ:。;あ@あ」あ:wかk:あふぇあ:ら;wらmeアフェワファカヴァエア開示味じゃマッlwlpqwまklfml;あw、l;えkらmktc. (以下470個省略)
これだけたくさんの要素があり、これら無数の要素1つ1つに対して、人によって全く考え方が違うんだろうと思います。恐ろしい限りです。
主観と客観の、交わるところ
これだけ、やりがいやダルさを規定する要素が多岐に渡るということは、仮に、「大企業のサラリーマンというのは、下らない社則に縛られて自由が無く、やりがいなんて無い。若いうちは何度でもやり直しがきくから起業して挑戦するべきなのだ!(キリっ)」
という感じの意見があったとしても、こういう意見の“一般性”や“普遍性”は殆ど「ゼロ」に近似できます。
「自由」に関して言えば、この意見のようにサラリーマンという時点で「自由が無い」と捉える人もいれば、会社のアセットを使って好きな仕事が出来るんだからむしろ自由は大きいじゃないか、と感じる人もいるでしょう。
「挑戦」に関しても、それを重要だと捉える人もいるでしょうし、別に「挑戦してる感」は求めてませんという人もいると思います。
「やりなおし」とは、何を以て「やりなおし」と定義しているのでしょう?たぶん人によって、「やりなおせている」と感じる状況は違うでしょう。
加えて、「自由」「挑戦」「やりなおし」の3要素だけから仕事の包括的な「やりがい」を結論付ける、これがさらに一般性を押し下げてしまいます。なぜなら、「対価としてのお金」「物理的環境」「リスク」「地位」「職場の人間関係」「時間的制約」「安定」「成長」「帰属」他500個以上の要素を加味して、ようやくその人にとっての総合的な“やりがい”が決まるからです。
でも、この“キリっ”とした意見は、一個人の感想ではなく普遍的な真理かのように書かれています。「〜すべき」。みんな若者はこうした方が良い!という風な、圧倒的に力強い読後感があります。なので、こんな反論が来るかもしれません。 「起業のリスクを考えてなさすぎる。起業して大した成果も出せなければ、良い歳こいて中途採用市場に戻っても満足いく会社には入れない。だいたい、殆どのベンチャーは潰れるという事実に目を向けるべき。」
さて、こんな議論が始まったら、どうでしょう?なんだか、どんどん個人的な考えの発表会から離れ、真理を探す為の議論かのような様相を呈してきました…!
どちらかが“普遍的に正しい”のかもしれない、どちらが正しいのかを競っているのかもしれない、という錯覚が始まります。
「仕事はダルいか」 ―危険な命題
価値観に触れる意見は、本来、どこまで言っても一個人の“ボヤき”の域を出ないはずなのに、書き方次第で一般性や普遍性を持つかのように聞こえたりするし、議論があると「どちらかが正しいのかもしれない」と錯覚する…。「仕事はダルいか」というテーマ設定や、それに対する意見というのは、そういうものの典型例だと思います。
特に、仕事に関しての経験だとか肌感覚がない就活生のような立場の人は、1つの個人的な意見を聞いても「大きく捨象されている側面が何なのか」を瞬時に見抜くのが難しい。
「自由だから楽しい」、「指示通りに動くだけだから意味がない」、「全ては自分次第」というような、大胆な捨象で以て成り立っているような論理に対して、瞬時に疑問を持つ素地がない。
では、これまでの話を全て統合して、詰まるところ、「仕事はダルい」んでしょうか?
どうなんでしょう?
めちゃくちゃ疲れてきました
普段めったに真面目なことを書かないので、物凄く疲れてきました。疲弊しています。目が充血して来ましたし、頭が痛くなってきましたし、白髪が増えてきましたし、くるぶしが臭くなってきました。
何はともあれ、「仕事がダルいか」というような問いかけは、「本質的には正解のない命題なのに、ともすれば意見に差異でなく優劣があるかのように錯覚しやすいテーマ設定」だと思っていて、「人の意見を聞くこと自体に、そもそもどの程度の価値があるのか」をよく考えることが大切なんじゃないかと、個人的には、そんな風に思います。
「仕事はダルい」と言う記事を読んだからと言って、安易に「ああ仕事ってダルいんだ」と思うことにあまり意味は無いし、その逆もまた然りで、「楽しめ」と言われて楽しむもんでもない。前提が、人によって違い過ぎる。
価値観に触れるテーマである以上は、自分しか知らない、リアルで生々しい自分の肌感覚だけを頼りにしたい。きっと仕事ってダルいし、ダルくない。楽しいし、楽しくない。やりがいがアルし、ナイ。おっほっほ。こちらからは以上です。
残尿感の凄い終わり方で、びっくりしてます。
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【ニャート】「でも、仕事って結構ダルい」に100%賛成。その上で、超ネガティブな私がそれでも仕事に前向きにならざるを得ない話
【トイアンナ】楽しくない仕事なんかない!「成長させてほしい」とねだるな、勝ち取れ
【KEN】トマトジュースと私。ー仕事で「生きてる実感」を味わう3つのコツー
【熊谷真士】でも、仕事って全然ダルくないですよ?